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2010-08-27(Fri)

ロバの耳で

 C79申し込みました。
 はい。エルフがヒロインのヨーロッパ風異世界ファンタジーです。いや、ケルト風かな。まぁ入り混じりつつ、というような。挿絵はゆえっち……ではなく、超大物をお招きして壮大な世界観を表出していきたいなあと考えています。受かれば、ですけど……。

 で、このblogなんですが、じぶんのサイトにWordpressを導入した、ということもあり、そちらに時事的なことを書こう、と考えていて、こっちは自分の考えとか、特に時節かかわりなく読めるものを、というつもりでいたのですが、読む人にとってはどっちも見に来なきゃいけなくて結構不便だなあ、ということを考えはじめ、こちらに書いた記事すべてAlias under the Azureからも読めるようにするつもりです。つまり統合ですね。
 ここを残すかどうかは、ちょっと考え中です。せっかくレイアウトも考えたし潰すのは惜しい気持ちもあるんですよね。
 いずれにせよ、サイトのほうを見に来ていただければ、最新の情報から、雑感や雑考をまとめた記事まで、ぜんぶ読めるようになる、というつもりです。こっそり前のblogから一部の記事を移行してあるので、興味があったら読んでもらいたいですね。自分で言うのもなんですが、5年前のぼくの考えとか、なかなか興味深いところも見つかったので。
 よく、初心忘るべからずなんていいますけど、これ、本来の意味は、初心から変わったものをどう自分の中で評価するかっていうことだと思うんですよね。変わらないなんてありえない。あの頃は未熟であった、ということを忘れないこと。むかしからできたなどと驕らないこと。これがだいじなのかなーなんて。まぁ、初心なんて、だいたい恥ずかしい過去ですよ。
 ちなみに「忘るべからず」なんですよね。「忘る」の下二段活用。「れ」「れ」「る」「るる」「るれ」「れよ」です。「べし」は終止形で結ぶので、「忘るべからず」となるわけです。FFVIIは「忘れられし都」じゃなくて「忘らるる都」なんです。「忘らるる」ってなかなか面白くて、この「るる」で結ぶっていうことは、つまり現在進行中の事象を表してたりするんですよね。いまなお人々の記憶から零れ落ち続けている、と。話逸れまくりですね。たぶんこれがこのblogのさいごの記事になってもいいように、ということで好き勝手書いてるんだと思います。はい。
 このblogは基本的には、ぼくの中で消化不良なものごとを、ぼくが納得するために書いている部分が大きいです。なので、ガツンと何かにぶつかったときには、よく書けるのですが、なかなかそういうふうにはいかない。そりゃね、いつもいつも気に入らないことばっかってわけでもないんです。
 あと、ぶつかったからといって、いつでもコンフリクトを解消しきれるかというと、これもちょっと、そんなわけないんで、やっぱり、記事を書く頻度は下がっちゃう。そうじゃなくて、もっとゆるく、日記の体裁でもいいから、できるだけ書こう、ということを、いまでは思っていて、充分納得して書く記事は、たまに挟めればいいじゃない、と。わざわざスペースを分けることもない。

 いろいろ書いたけれど、ま、つまりは、今後も好き勝手やっていきたいな、ってことです。
 ゆえっちもがんばって絵を描いてるし、ぼくも、がんばって話を書かなきゃなって。
 まぁ、まずはそのためには目下迫る紅楼夢の原稿、なんですが。

 では、つぎはAlias under the Azureで。

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related: おしらせ

2010-07-28(Wed)

英語が苦手なのは

 きょうは語彙を身につけることについての話をしたい。

 ところで、日本人は英語が苦手だと言われている。ぼくのそんなに長くもない人生経験からいえば、たぶんそれは本当なのだろうと思う。しかしぼくは、それは日本っていう文化や社会や価値観によるものではなく、また、日本語と英語の言語的差異の大きさによるものでもなく、純粋に教育のほうの問題なのだろうと考えている(もちろん、文化や言語的差異も多かれ少なかれ影響しているだろう、しかしそれが主原因だとは考えていない)。
 そういう前提で話を進めよう。
 ぼくは、語彙を増やすということ、適切な語選択ができるということ、これらと、日本人が英語が苦手であることとの間になんらかの関係があるのではないか、という仮説を立てた。べつにぼくは言語学のエキスパートではなく、ちょっとかじっただけのにわかなので、きょうの話はその仮説のただしさを証明したりするという類ではなく、ある種の思考実験をもとに、語彙を増やす、適切な語選択ができるようになる、そのために何ができるだろうか、ということを考える手がかりを探っていきたい、という主旨だとご理解されたい。

 さて、日本人は英語が苦手だと言われている。ここを読んでくれているひとの中にも、中学高校と英語の授業がしんどかった、というひとがいるかもしれない。塾で受け持った生徒のうち、すくなくとも半数は英語を苦にしていた。ふつうプログラムの命名は英語に従うが、「このコードは英語ができないひとが書いたんだなぁ」とわかるような、ふしぎな命名を目にすることもよくある。
 そんな経験から、英語ができるかどうかを見分ける方法を考えてみた。

 ちょっとためしに、1) 2010年7月28日 と、2) 愛知県名古屋市中区栄 を英語に訳してみてほしい。

 こうなる。

 1) 28th July 2010
 2) Sakae, Naka-ku, Nagoya City, Aichi(, Japan)

 細かいところはともかく、この順番が自然に思い浮かべられるひとは、すくなくともそういうひとは、英語ができそうな気がする。
 日本人にとって英語がどうして苦手なのか、というのは、まずひとつに、英語が日本語とちがう順番でものごとを表そうとする部分がありそうだ。

「そんなもん、日本語と違うんだからわかるわけがない」

 おっしゃるとおり。
 しかし、日本語と比較的近い文法を持つ韓国語を母語とする方々は、日本人よりも英語ができる、というか、TOEICのスコアでみれば、けっこう優秀な部類に入る。もし言語の差異が英語習得の妨げになっているのなら、韓国人も英語が苦手でないとつじつまが合わない。ぼくは韓国人がどうやって英語を習得しているのかしらないから、比較のしようがないのだけど、それでも、日本人が英語が苦手な理由を推測してみた。
 なぜ日本人は英語が苦手なのだろう。

 それは、

「そんなもん、日本語と違うんだからわかるわけがない」

 という考え方にこそある。
 いいだろうか。そもそも、日本語と英語は、違って当たり前である。多くの英語が苦手な日本人は、日本語と英語が違って当たり前なのにもかかわらず、日本語の知識をベースに英語を身につけようとしがちである。lとrの区別とか、日本語では意識しない発音が苦手なのはある意味しかたがないところはある。しかし、tomatoを「トマト」と読んじゃうのはどう考えても先入観のせいだろう。あまりに日常に根ざしすぎていて仕方ないのかもしれないが、potatoを「ポテト」と読めるなら、tomatoも「トメト」と読んだほうがまだましだ。もちろんどっちも間違ってるけれど。

 そう。原因は、先入観だ。
 日本人は無意識のうちに、「言葉の普遍的なルール」みたいなものをベースにして他の言語に取り組もうとしている。しかしそんなものは、ない。
 そして、これは他の言語にだけいえるものではない。日本語ですら、そうなのだ。

 ちょっと古語の話をする。

 さすがに「をかし」という古語を見たときに「おかしい」と訳すひとは、あんまりいないだろうと思う。
 しかしはじめて「をかし」という古語を見たとき、つい「おかしい」という現代語訳を思い浮かべそうになったとしても、それは仕方がないことかもしれない。
 一方で「あはれなり」という古語を一律「哀れだ、かわいそうだ」と訳してしまうひとは、「をかし」を誤訳するひとにたいして、たぶん、多いんじゃないか。
「かわいそう」は、「あはれなり」の一部分でしかなくて、「あはれなり」というのは、ため息をつきたくなるような、しみじみとした気持ちをさしたり、静かにこころが動かされるさまをしめしたりもできることばだ。
「をかし」「あはれなり」は古語に対する理解を深める、入り口になる言葉だと、ぼくは思っている。この二つの言葉は、古語には現代語と違う価値観があったというしるしにほかならない。
 つまり、「枕草子」から、古語と現代語の間に隔たりがあるのだぞ、という意識を芽生えさせられるかどうかが、古語に対する理解を深めることができるかどうかにかかわってくるんじゃないか、と。
 古語は現代語とは違う。違って当たり前だ、ということを自覚する。そうすると、「をかし」も「あはれなり」も、現代語にはない未知の語彙だ、ということになる。そこではじめて辞書の出番がやってくる。先入観があるうちには、辞書を使おうと思わない。間違っているかどうかにすら気付けない。誤解は連鎖するし、語彙は増えない。

 英語に戻って考えてみよう。
 tomatoという単語を見て、「ああ、トマトか」と思ったところで、思考停止せず「そいつはほんとうにトマトなのか?」と考えてみてほしい。辞書にはtomatoを「トマト」と発音するようにはたぶん書いてない。あの発音記号からカタカナを起こすなら「トメイ↑トウ↓」だろう。

 たしかに英語は日本語とあまりに違いすぎている。違いすぎているから、分かるところから、知っているところから理解を深めていこう、足がかりにしよう、と思うのも無理はない。けれども、どんなに遠回りでも、地道に知識をひとつずつ積み重ねていくよりほかない。それはけっして無駄なことじゃない。英語のために積み上げた知識は、すくなくとも英語には通じるのだ。

 日本人が日本語を身につけるのだって例外じゃない。本当にそのことばは自分が知っていることばなのか疑うこと。そこから、日本語にたいするより深い理解が生まれてくる。
 語彙を増やす、適切な語選択ができるようになる。そのために必要なのは、既存の知識に頼りすぎない意識だと、ぼくは考えている。

related: ことば

2010-06-22(Tue)

ぼくがプロットを組む理由

 お久しぶり。
 先日、名古屋近辺のライトノベル作家志望で集まって談議したりしませんか、という集いの告知があったので、顔を出してきた。しばらく潜ってはいるものの、ぼくの中でまだ灯は消えていないので。
 各自プロットや作品を持ち寄って、ということだったので、プロットだけができあがっているものと、あとは純粋にこんな感じの文章書きますよということで短篇を一本添えて、持っていった。
 プロットのほうは、設定にやや分かりにくいところがあるかも、という声と、キャラクターが魅力的で分かりやすいですね、という声と、これはミステリですか?という声。

 一つ目はもう自分でもよく分かってる。結論から言えば、脳内の情報が文字に落としきれてないからだ。これはあとで詳しく。
 二つ目は、これはうれしい声。しかしこれに関してはそれなりの努力を払ってきた。自分でも前よりよくなってきたかな、と自惚れたりしていたが、こうやって第三者からの声をもらえると自信になる。自慢である。
 三つ目。ミステリではありません。しかし、プロットを読んでそう思われたということは、たぶん伏線の張り方や、謎かけめいた設定、展開などから、そのように意図していると感じられたのかもしれない。ガチミステリはぼくはまだまだ書けるレベルではないと自覚しているけれど、ある種の「展開を予想させる」くふうみたいなものは、こころがけているつもりだったので、これもやっぱりうれしい感想だった。

 ところで話は変わるのだけど、これまた先日、といっても別の日なのでこれとは別件なのだけど、「プロットを作ってもそのとおりに作品が仕上がることはないので、気にしていたらきりがない」というようなことを耳にした。
 ふむ、なるほど。確かにプロットどおりに作りあがることは滅多にないだろう。少なくともぼくは経験上、そういうことは全くない。

 話が逸れた。そういえば前振りも自慢ばかりでしょうもなかったし、そろそろ本題に入るとして。
 そう、本題である。
 つまり、「ぼくがプロットを組む理由」だ。
 この理由はいくつかある。

 その理由の一つが、前振りで書いた一つ目の問題、である。
「脳内の情報が出力に落としきれていないと、出力結果が分かりにくくなる」現象。
 結果から書くと自明である。当たり前すぎる。
 人間は非常に忘れっぽい。ぼくなど特にひどい。なので、ぼくはできるだけ、思いついたことはテキストエディタにがんがん書き起こしていくことにしている。タイトルだけのテキストファイルもたくさんあるし、そのファイルの存在自体を忘れていることもよくある。
 こんなに忘れっぽい人間だから。
 頭の中にだけ存在している情報を、設定に起こしたつもりで、説明したつもりで、その実、何の説明もなくそれを前提とした話をしはじめたりすることが、ないと言えるだろうか。いや、よくある。反語。
 件の集いでの指摘というのはまさにそれであり、自分では分かっているが(脳内にあるから)、他の人は説明を受けていないので知らない、という設定があり、そのまま話を書くと、その話を読んだとき「突然よく分からない設定がでてきた」という状態が生じる。
 プロットですら、そうなのだ。
 本原稿でそうならないわけがない。ましてプロットのない本原稿など、ほぼ脳内設定ベースである。読者とどこまで情報共有できているのか、はたして把握できますか、とぼくは思う。しかし現実にはそんなことが問題にならないような書き手もいるので、やはり人それぞれと思うしかないのだけど。
 少なくとも、この設定がキーだ、とか、この設定をここで読者に知っておいてもらう必要がある、とか、いつどの情報を出すのか、そういったもろもろの制御を、どこかでまとめておいた方がいい。
 そして、ぼくはそういう類をまとめるためのものをプロットと呼んでいる。で、プロットのためにネタのメモを取るようにしている。
 メモも、最近はできるだけ一つのファイルに追記を繰り返すようにしてるので、だいぶ抜けや漏れが減ってきた。
 それなのに、今回プロットを見てもらったときにはやはり分かりにくい、という意見をいただいたので、やはりまだまだ足りないのだろう。ぼくは特に、これについて自覚的になる必要があるだろう。
 思いつきを脳内に残したままにしておいてはいけない。さもなくば、できあがったものも分かりやすくはならないだろう。うんうん。
 ……本当に、そうだろうか?

 思いつきというのは、大半が無駄なものだ。ある意味無駄だから忘れるとも思う。そして本当に重要でなければ忘れてしまうから、設定に絡んでくることはないだろうし、そんなものは気にする必要はないのかもしれない。
 いや。
 それでも、だ。
 やっぱり書き起こしておくべきだとぼくは思う。少なくとも書き起こしておけば、後から見て本当に無駄かどうか判断できる。頭の中にあるうちは必要かどうかすら分からない。思いついたものがどこで使えるかも分からない。書いておいて後から捨てることは、いくらでもできる。

 しかし、これだけじゃもう一つの問題には片がつかない。
「プロットどおりに作品が仕上がることはない。だからプロットなど気にしすぎることはない」ってやつだ。
 耳に挟んだだけなので当人の真意を問うことはできないから、もしかしたらずれがあるかもしれない。しかし、どの道この手の言及は避けられない話なので、この問題も解決する必要があるだろう。

 プロットというのは、ある種の設計図である。そしてぼくの仕事は、システムエンジニア――そのひとつとして、システムの設計書を書き起こすこと――だ。いまはしばらくおやすみをいただいているが。
 期間から言ってたいした経験ではないが、その経験においてもこれは言えると思う。仕様どおりに設計し、その設計どおりに実装を行ったつもりで、バグが見つからないことは一度もなかった。そしてバグの原因を追究していくと、実は設計が、ともすれば仕様からして、間違っていた、と。こういうことは決して少なくないだろうと思ってる。
 なるほど、設計したとおりにものができあがることはない、と言い換えることもできるかもしれない。
 しかし、だ。
 実装段階で変更しなきゃいけない点がいっぱい出てくるとしたら、確かに、まずいのは、設計の方である。でも、それが設計は重要じゃないということには繋がらない。
 設計から見直すべき、なのだ。
 設計上の誤りを見つけて、それをフィックスし、フィードバックする。そして実装する。こういう繰り返しで進めて行く。このほうが、圧倒的に、実装時のリスクが減る。
 ぼくだってプロットどおりに話が書けたことなんて一度もないから、大きなことは言えないが。
 しかし、プロットを組んで、話を作って、話の軌道が変わってきたなら、そこでまたプロットを組み直せばいいんじゃないだろうか。
 もし「気にしすぎることはない」というのが、「プロットなんて後で自由に弄ってもいいのよ」というような趣旨ならば、まぁ、それおれがもう言ったし?というちょっとピントのずれた意見になっているかもしれないが……。

 確かにプロットや設定に引きずられて思い通りに書けないことがあるとしたら、それは枷でしかない。けれども、その枷は本当におもりがついていますか? どこかに繋がれていますか? 繋がれているとして、鍵をお持ちではありませんか? あるいは、鎖は錆びていませんか? 断ち切る道具が転がっていませんか? ぼくは問い続けたい。
 もしかしたらちょっと足を引っ張っただけで、枷が外れるかもしれない。
 そんな気楽さは、確かに持っていていい。しかし、足元を見ることは忘れずにいてほしい。自分が立っている場所を思い出してほしい。どうして話を書こうとしたんだっけ? 何を伝えたかったんだっけ?――と。

 ぼくがプロットを組むのは、つまり、自分の思いを文字に落とし込むため、誰かに確実に伝えるため、なのだ。

related: かきもの

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