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2010-06-22(Tue)

ぼくがプロットを組む理由

 お久しぶり。
 先日、名古屋近辺のライトノベル作家志望で集まって談議したりしませんか、という集いの告知があったので、顔を出してきた。しばらく潜ってはいるものの、ぼくの中でまだ灯は消えていないので。
 各自プロットや作品を持ち寄って、ということだったので、プロットだけができあがっているものと、あとは純粋にこんな感じの文章書きますよということで短篇を一本添えて、持っていった。
 プロットのほうは、設定にやや分かりにくいところがあるかも、という声と、キャラクターが魅力的で分かりやすいですね、という声と、これはミステリですか?という声。

 一つ目はもう自分でもよく分かってる。結論から言えば、脳内の情報が文字に落としきれてないからだ。これはあとで詳しく。
 二つ目は、これはうれしい声。しかしこれに関してはそれなりの努力を払ってきた。自分でも前よりよくなってきたかな、と自惚れたりしていたが、こうやって第三者からの声をもらえると自信になる。自慢である。
 三つ目。ミステリではありません。しかし、プロットを読んでそう思われたということは、たぶん伏線の張り方や、謎かけめいた設定、展開などから、そのように意図していると感じられたのかもしれない。ガチミステリはぼくはまだまだ書けるレベルではないと自覚しているけれど、ある種の「展開を予想させる」くふうみたいなものは、こころがけているつもりだったので、これもやっぱりうれしい感想だった。

 ところで話は変わるのだけど、これまた先日、といっても別の日なのでこれとは別件なのだけど、「プロットを作ってもそのとおりに作品が仕上がることはないので、気にしていたらきりがない」というようなことを耳にした。
 ふむ、なるほど。確かにプロットどおりに作りあがることは滅多にないだろう。少なくともぼくは経験上、そういうことは全くない。

 話が逸れた。そういえば前振りも自慢ばかりでしょうもなかったし、そろそろ本題に入るとして。
 そう、本題である。
 つまり、「ぼくがプロットを組む理由」だ。
 この理由はいくつかある。

 その理由の一つが、前振りで書いた一つ目の問題、である。
「脳内の情報が出力に落としきれていないと、出力結果が分かりにくくなる」現象。
 結果から書くと自明である。当たり前すぎる。
 人間は非常に忘れっぽい。ぼくなど特にひどい。なので、ぼくはできるだけ、思いついたことはテキストエディタにがんがん書き起こしていくことにしている。タイトルだけのテキストファイルもたくさんあるし、そのファイルの存在自体を忘れていることもよくある。
 こんなに忘れっぽい人間だから。
 頭の中にだけ存在している情報を、設定に起こしたつもりで、説明したつもりで、その実、何の説明もなくそれを前提とした話をしはじめたりすることが、ないと言えるだろうか。いや、よくある。反語。
 件の集いでの指摘というのはまさにそれであり、自分では分かっているが(脳内にあるから)、他の人は説明を受けていないので知らない、という設定があり、そのまま話を書くと、その話を読んだとき「突然よく分からない設定がでてきた」という状態が生じる。
 プロットですら、そうなのだ。
 本原稿でそうならないわけがない。ましてプロットのない本原稿など、ほぼ脳内設定ベースである。読者とどこまで情報共有できているのか、はたして把握できますか、とぼくは思う。しかし現実にはそんなことが問題にならないような書き手もいるので、やはり人それぞれと思うしかないのだけど。
 少なくとも、この設定がキーだ、とか、この設定をここで読者に知っておいてもらう必要がある、とか、いつどの情報を出すのか、そういったもろもろの制御を、どこかでまとめておいた方がいい。
 そして、ぼくはそういう類をまとめるためのものをプロットと呼んでいる。で、プロットのためにネタのメモを取るようにしている。
 メモも、最近はできるだけ一つのファイルに追記を繰り返すようにしてるので、だいぶ抜けや漏れが減ってきた。
 それなのに、今回プロットを見てもらったときにはやはり分かりにくい、という意見をいただいたので、やはりまだまだ足りないのだろう。ぼくは特に、これについて自覚的になる必要があるだろう。
 思いつきを脳内に残したままにしておいてはいけない。さもなくば、できあがったものも分かりやすくはならないだろう。うんうん。
 ……本当に、そうだろうか?

 思いつきというのは、大半が無駄なものだ。ある意味無駄だから忘れるとも思う。そして本当に重要でなければ忘れてしまうから、設定に絡んでくることはないだろうし、そんなものは気にする必要はないのかもしれない。
 いや。
 それでも、だ。
 やっぱり書き起こしておくべきだとぼくは思う。少なくとも書き起こしておけば、後から見て本当に無駄かどうか判断できる。頭の中にあるうちは必要かどうかすら分からない。思いついたものがどこで使えるかも分からない。書いておいて後から捨てることは、いくらでもできる。

 しかし、これだけじゃもう一つの問題には片がつかない。
「プロットどおりに作品が仕上がることはない。だからプロットなど気にしすぎることはない」ってやつだ。
 耳に挟んだだけなので当人の真意を問うことはできないから、もしかしたらずれがあるかもしれない。しかし、どの道この手の言及は避けられない話なので、この問題も解決する必要があるだろう。

 プロットというのは、ある種の設計図である。そしてぼくの仕事は、システムエンジニア――そのひとつとして、システムの設計書を書き起こすこと――だ。いまはしばらくおやすみをいただいているが。
 期間から言ってたいした経験ではないが、その経験においてもこれは言えると思う。仕様どおりに設計し、その設計どおりに実装を行ったつもりで、バグが見つからないことは一度もなかった。そしてバグの原因を追究していくと、実は設計が、ともすれば仕様からして、間違っていた、と。こういうことは決して少なくないだろうと思ってる。
 なるほど、設計したとおりにものができあがることはない、と言い換えることもできるかもしれない。
 しかし、だ。
 実装段階で変更しなきゃいけない点がいっぱい出てくるとしたら、確かに、まずいのは、設計の方である。でも、それが設計は重要じゃないということには繋がらない。
 設計から見直すべき、なのだ。
 設計上の誤りを見つけて、それをフィックスし、フィードバックする。そして実装する。こういう繰り返しで進めて行く。このほうが、圧倒的に、実装時のリスクが減る。
 ぼくだってプロットどおりに話が書けたことなんて一度もないから、大きなことは言えないが。
 しかし、プロットを組んで、話を作って、話の軌道が変わってきたなら、そこでまたプロットを組み直せばいいんじゃないだろうか。
 もし「気にしすぎることはない」というのが、「プロットなんて後で自由に弄ってもいいのよ」というような趣旨ならば、まぁ、それおれがもう言ったし?というちょっとピントのずれた意見になっているかもしれないが……。

 確かにプロットや設定に引きずられて思い通りに書けないことがあるとしたら、それは枷でしかない。けれども、その枷は本当におもりがついていますか? どこかに繋がれていますか? 繋がれているとして、鍵をお持ちではありませんか? あるいは、鎖は錆びていませんか? 断ち切る道具が転がっていませんか? ぼくは問い続けたい。
 もしかしたらちょっと足を引っ張っただけで、枷が外れるかもしれない。
 そんな気楽さは、確かに持っていていい。しかし、足元を見ることは忘れずにいてほしい。自分が立っている場所を思い出してほしい。どうして話を書こうとしたんだっけ? 何を伝えたかったんだっけ?――と。

 ぼくがプロットを組むのは、つまり、自分の思いを文字に落とし込むため、誰かに確実に伝えるため、なのだ。

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related: かきもの

2010-04-07(Wed)

ロバの耳

 ぼくの妖精好きはみんなの知るところだと思う。
 知らない人も、きっとすぐに知るだろう。ぼくは妖精に対して並々ならぬ思いを抱いている。そう、たとえば従妹やボブカットと同じくらいには。
 妖精の話をしたい。
 妖精、というか耳長の種族の話をしたい。
 耳長亜人のことをエルフと呼ぶ。いや、逆か。エルフといえば、耳長亜人である。いや、それには限らないのだけれども、しかし、妖精を必ずしもエルフと呼ぶことができず、逆にエルフを妖精と呼ぶことが難しい事情があったりする。エルフと妖精を別の種族とみなすフィクションは多い。そうでないものもまたしかり。なので、エルフはここでは耳長亜人を指す、という見解で進めたい。
 ぼくはこの耳長亜人族に並々ならぬ思いを抱いている。妖精に対するそれと同じように。
 エルフということばはすごくわかりやすく、エルフといえばだいたいの人があの耳長亜人を思い浮かべるだろう。
 しかし、自分がフィクションでエルフを出す、とするならば、そこで思考停止しないで、一歩踏み込んで、エルフってなんなんだろうということを考えてみたい。エルフ好きとして。

 しばらく、こんなものを考えていた。

 エルフには、白エルフと黒エルフがいる。
 白エルフは北部の不毛な高原地帯で狩猟生活を営む。テントや穴居で生活をし、定住することなく遊牧する。植物を摂取しづらいので、肉は生食する。肌は白い。プラチナまたは砂色のブロンドに鳶色の瞳。白い肌は日光に弱いため、フードや帽子を被り、アームウォーマーやレギンスを着用しているが、肌をさらし、日光浴をする習慣がある。寒冷な地域に住むので毛皮のローブをまとう。ヤギ、トナカイ、エルク、クマなどを食す。オオカミを飼う。
 黒エルフは南部の深い森に住む。温暖で多湿な気候から、露出の高い衣装をまとう。深い森とはいえ日光に晒されるので、肌は褐色。髪は白銀、銀灰色。狩猟と採集で生活。果物やイノシシ、鳥類、爬虫類を食す。肉類は加熱する。ヤマネコを飼い、狩猟に連れて行く。

 みたいな。
 エルフを亜人として、森の種族として捕らえたときに、あの肌の白さってなんというか、ファンタジーだからべつにいいんだけど、でも、やっぱりちょっと納得行かないというか、もし森の中にいるなら肌が黒い方がなんとなくイメージにあうような、と勝手に思っていた。しかし妖精というのは肌が白くて妖精、肌が黒いのはなんとなく悪魔的なイメージというキリスト教的な価値観がどうしてもついてまわり、ならそのイメージはあえて大切にして、アレンジしていったらどうか、というところに今回の妄想があったりして。
 オオカミは神格化されることが多い。北国の生き物という印象もある。なので、白エルフのパートナーにオオカミを。黒猫は魔女の使い、というので、まぁ、黒猫とは違うんだけど、黒エルフのパートナーにヤマネコをつけてみた。つまり、黒エルフには魔女のイメージがちょっと入ってたり。
 架空の種族を考える上で、亜人なのだから、と人間ベースで考えたりしてみたけど、そうすると、あの長い耳が謎い。耳が長いとその分音を拾いやすいんだろうか。しかし狩る側の種族に索敵用の器官が必要とはあんまり思えない。ということは、狩られる側としての側面もあったのかもしれない。エルフの天敵……それはいったい?

 そんなこんな考えるのはとても楽しい。しかし、それをいざ作品に反映させるとなると、それ以外のことをまだまだ決め切れていないので、なかなか簡単にはいかないのだけど。

related: かきもの

2010-01-02(Sat)

視覚の翻訳

 たまには文章書き以外の話をしてみる。

 マンガ的表現、というのがある。地球が割れたりするやつだ。これはイメージです、なんて書くまでもなく、マンガだから、で通ってしまう。主人公がヒロインに殴り飛ばされて空の星になったりしても、誰もリアリティ云々なんて野暮な突っ込みしない。Cross†Channelではコミック力場なんていってネタにしてたりして、ひじょうに楽しかったなぁ。
 さて、こういう明らかに現実的にはありえない描写は、マンガ的表現だ、とかすぐにわかるものである。しかし実際もっとよく考えてみると、日本以外を舞台にした作品で日本語で台詞が書かれているのはおかしいんじゃないか、とか、そういうことも出てくるだろう。もちろん結論から言えばおかしくもなんともない。

 時代や文化の背景設定について、充分に考証した上で作画するというのは、歴史ものだったりファンタジーやSFだったりでは、その世界観に説得力を持たせるために確かに必要なことだ。しかしあまりにこと細かにそれをする必要があるかというと、微妙なところになってくる。
 たとえば言語でいえば、多言語にならないのなら別に日本語でいい。作品になった時点で、日本語に翻訳されている、というふうに考えるわけだ。そしてどうしてそう考えるかというと、世界観のために言語まで変えてしまうと、作品を読むのに支障をきたしかねないから。当たり前のことを言っているようだけど、これをほかのものに置き換えて考えると、また違ったものが見えてくる。

 たとえば。
 恋愛もののヒロインはどうして皆美少女なのか、というのがある。
 しかし別に変じゃない。これから読み手が、主人公キャラクターを通してそのヒロインたちと恋愛するのに、ヒロインの容姿が平均的だったり、あるいは、ちょっと残念だったり、というのでは困るわけだ。だから実際に美少女という設定であることもおおいにあるだろうけど、客観的にどうだったかはさておき、その主人公の目にはこう見える、というのでまったく構わない。主人公にとって美少女なら、それは美少女として描かれていてまったく変じゃない。そう、もしかしたら平均的な容姿かもしれないけど、視覚を美少女に翻訳しているのだ。フィルターで補正かけてると言ってもいいかもしれない。
 髪の毛の色が物理的にありえないのがマンガ的表現として受け入れられるのと同じように、こう考えたら充分納得できる。

 同じようにもうひとつ。
 近未来SFは技術が発展していることが予想されるからより未来的なデザインの構造物が描かれる。
 ところが、ちょっと遡って昔のSFなんかを見ると、鉄板で箱組みして、配線やパイプが向き出し、計器類がアナログメーター、なんていうのがいっぱいある。本当なら、その当時に馴染みのある機械が未来の世界で使われていることはないだろう。配線はカバーで保護するどころか、そんなのは壁や床の中に配管を通せばいいのだし、計器類はデジタルで、数字やグラフを使えばいい。操作パネルもあんなにたくさんいらない。細かい操作はマシンに制御させて自動化したらいい。しかし、それではだめだったのだ、たぶん。
 見るからに機械然とした部品が多数配置されていることに、なんというかSFっぽさみたいなものがあったのだ。

 G-SAVIORをみたときにコックピットの古臭さを見て唖然とした覚えがある。ガンダムのコックピットといったら全天周囲モニターにリニアシートである。しかし、そういったものを描くのではなく、あえて安っぽいデザインにしたのは、もしかしたらアメリカではそっちのほうがよりわかりやすいSFだったのかもしれない。もちろん、単にガンダムへの理解が不充分だったのかもしれない。しかし作風を見るにアメリカらしいSF作品にしようとしていたのは間違いないから、あれはあれでいいのだろう、と今では思ってる。

 わかりやすさのために、あえて考証を無視することも、ときに重要なことだとぼくが考えるようになったのは、わりと最近のことだ。

 具体的にいえば、サマーウォーズを見てから。

 サマーウォーズはネットワークが大きく進歩した未来を舞台にしている。仮想空間が現実空間に大きく関わり、インフラレベルで浸透しているような世界で、しかし彼らが持っている情報端末は、いま現時点のものだ。携帯電話にiPhone、ニンテンドーDSである。ゲーム機なんて五年もしたら代替わりするのに、だ! 携帯電話はもっと早い。ストレートタイプが折りたたみ式にとって変わられ、いつの間にかスライド式が主流になり、全面タッチパネルも珍しくなくなっていた。iPhoneだっていつまでも同じデザインであるはずがないだろう。しかし端末はあの世界観からしたら旧時代然としたもので描かれている。仮想世界のグラフィックインタフェースがあんなにも未来的なのに、だ。
 けれども、登場人物たちがおのおのキャラクター性に適したアイテムを持っていることが、そのキャラクター性を表現する上で重要だった。どんな端末で仮想世界にアクセスしているのか、ということが登場人物の個性を表現しているのだ。それなのに、ぱっと見なんだかよくわからないというのでは、そうした効果は期待できない。侘助おじさんが持っているであろう最新機種の端末を、iPhoneに翻訳したのだ。ぼくらがより理解しやすいように。

 結局、表現したいものが最も優先される。表現したいものがあって、それを伝えることが何より重要だから、伝達を阻害するなら整合性なんてかえって不要になる。表現者の意図を汲んで、描こうとしたものがなんだったのかを考えたなら、ときとして、考証が不充分だとか、野暮ってもんじゃないだろうか。

 本当に大事なのは、表現したいもの、それ自体である。時代や背景設定の考証だって、本来はそのために行うものだ。表現したいものの説得力を高めるための手段にすぎない。逆に表現したいものをよりわかりやすく伝えるために、あえて整合性を無視するのだって、それももちろん構わないはずなのだ。

 いちおう最後にひとつだけ断っておこう。
 ぼく自身は、時代や背景設定の考証が綿密に精細に行われた作品を見るのはすごく好きである。中世を舞台にした作品に全身鎧が出てきたらやっぱりげんなりだってする。そういう考証が必ずしも無視できるとはぼくは思わない。作者の意図を考証を怠ることのエクスキューズにしていいわけがない。それとこれとは、別のお話。

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