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2009-12-28(Mon)

言葉と表現 #6

 今日は口語についての話をしたい。
 意外に、地の文で修辞を使うことというのは少ない。地の文は本文の七割から八割程度を占めるから、つねに修辞を凝らした文にすると、かえって、どこに力を入れているのかがぼけてしまう。だから、ここぞ!というところで、適切な効果を喚起する修辞を使えれば、それが理想だと思う。
 で、むしろ会話文のほうである。
 会話文は、短くまとまりながらも、より印象的に、話者の個性をよく反映していることが、ことキャラクター主体の作品においては望ましいと思う。印象的に、というのは、これは会話の連続で話者が明確にするということももちろんそうだけど、そのキャラクターの表層と内面とをよく表現するのは、地の文より会話だと思うからだ。
 また、会話はテンポとリズムが大事だとも思う。だから、短くまとまりのある文を書けるのがいい。このあたりが、台詞回し、とかいうやつ。
 どうしたらうまい台詞回しというやつができるのか。
 これはぼくが知りたいくらいである。
 けれども、いくらか意識してもいい点がある、というのは分かってるつもり。そういうわけで、口語の話をしたい。

 口語、というのは、話し言葉のことである。
 言葉っていうのは、はっきりいってたいがいいい加減なもので、きっちりなんてしてない。話し言葉は話しやすさに引きづられるから、書き言葉にない表現が生まれる。
 たとえば、「ら抜き」や「い抜き」がそうだ。こと文を書く上で「正しい日本語」みたいなことを心がけるように、という話を聞くことがある。その「正しい日本語」とやらに「ら抜き」や「い抜き」は含まれていない。
 ふむ。
 ぼくは仕事で設計書なんかを書いている。試験結果報告書や調査報告書なんかもそうだ。この手の技術文書を書くなら、確かに「正しい日本語」を心がけるべきというのは、そうだろう。論文やビジネスメールもそうだろう。
 しかし、小説やマンガ、ゲームでまでそうである必要はまったくないし、まして日常会話や、身内のルーズなやりとりに「正しい日本語」なんて、と思う。
「ら抜き」や「い抜き」というのは、音便である。より話しやすいよう、言葉がくずれた結果だ。たとえば「読む」の連用形は「読み」だから、「本を読みて」となるのがより文法に忠実だろう。しかし、「本を読んで」となるのがふつうだ。そしてぼくらはこれを何のためらいもなく受け入れている。「ら抜き」や「い抜き」だって、これとそう変わらない話じゃないか。

 しかし、実際公の場で使うべきでない、というのは分かる。話しやすい言葉というのは、省略の言葉である。もっというなら手抜きの言葉である。手を抜くということは礼を失するにあたるだろう。あるいは正当性を主張する上では、説得力を欠くことになるかもしれない。
 逆に気を抜いていいところでそうしないのは、これも変である。ルーズな言葉だからこそよい、私の場というものもある。

 地の文を一人称、あるいは三人称で自由間接話法を取り入れるような場合、ルーズさが求められる場合があるだろう。会話文はなおさらそうである。そして普段ルーズな会話文において、あえてルーズでない言葉を使うことが、そう、強調になってくる。
「い抜き」言葉は、「~している」の「い」を抜く表現だが、普段「い」を抜き、ここぞというところで「い」を入れてやる。普段「~してる」と緩く読んでいたところで、「て」と「る」の間に「い」が入ってくると、「い」を意識して読むことになる。おそらくは、力強く読む。このとき、たぶん話者も同じ気持ちなのだ。強く何かを言いたい。だからこそ「い抜き」しない。手抜きではない、省略しない言葉を使うだろう。
 話し方や口調から、そのときの話者のモチベーションやコンディションが想像できる。逆に言えば、それは書き手としては、意識して表現できる、ということだ。ふだん無意識にやっていることを、字として文として書き出し、それを見つめなおせば、それが見えてくる。

 台詞回しというのは、こういう一字一言一句のレベルで互いに作用しあう上、場面の状況、文脈、その他さまざまな影響を考慮しなきゃいけない。だから、一言で、こういうのが上手い台詞回しだ、というものはないと思う。けれども、よりよくするために考えることはできる。考えることがありすぎるくらいなんだから。
 今回は、ひとつとして、口語というのがあるぞ、ということを心に留めておいてもらえたら、と思う。そんな、お話。

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2009-12-27(Sun)

言葉と表現 #5

 #4の続き。
 予告したとおり連体止め、連用止めの話をしたい。

・連体止め
 体言に連なる形で止めること、というのは、つまり名詞を修飾する形で文を終えることだ。
 修飾するべき対象を省略する、ということが、どういう意図かというと、言葉に出すのがはばかられる、とか、言葉にするまでもない、とか、そんなところだろうか。

 ***

 カレーパンがすきなのである。コロッケパンや焼きそばパンではない。カレーパンのどこが好きって、さくっとした、それでいてふわふわで、辛い――。

 ***

 最後の「辛い」は対応する主語がないことから、形容詞の連体形であるとわかる。ということは、辛いは何かを修飾しているわけだけど、「どこが好き」に対応する言葉が文にないから、「~ところ」が省略されているってことになる。まぁ、更にいうなら「~ところが好きである」と続くだろう。
 言葉にできないほどカレーパンが好きらしい。
 この手の途中で切る方法を「黙得法」なんて言ったりするけど、それはまた別の機会にでも。

 ***

「お前、昨日いっしょに歩いてた女の人、あれ誰だよ」
「誰って、え、昨日いっしょに?」
「ほら、あの綺麗な」

 ***

 こちらは言わずもがなだから省略している。
 ちょっと焦れた感じが、伝わるだろうか。

 会話文なんかではよく使う。日常、特に意識しないで使っているからというのもあるけど、しかし実際のところ適当に使っているのではなくて、なんらかの意図が自然に含まれてくる。それは上の言葉にできないくらいの感情の昂ぶりだったり、焦れだったり、あるいは、言葉にするのをためらわれる、恐れや不安だったり、緊張だったりを表現するのにいい方法だと思う。

・連用止め
 こちらは用言に連なる形で止めること。つまりは動詞を修飾する形で文を終えればいい。連用形や、副詞で文を止めればいい。接続詞で止めるのも、これに含んでよさそうだ。意図としては、連体止めと似ていて、言葉にするまでもない場合、言葉にしづらい場合、というのがある。連体止めに比べると、比較的リズミカルな印象があるような気がする。

 ***

「昨日いっしょに歩いてたのは姉貴だよ。あれ、綺麗か? まあ、どっちでもいいんだけど、まあちょっと付き合えって言われて、それでいっしょにいたんだけど」
「それで?」
「いやべつにそんだけだよ」
「なんだよつまらん」

 ***

「で」で終わっているのは、言うまでもなく、促す形である。焦れ、というのとはちょっと違うけど、まぁ、似た種類の効果だろうと思う。

 ***

 カレーパンの魅力は充分に伝わったと思うけど、結局焼きそばパンを買ったのは、カレーパンがなかったからだ。ないものは仕方ない。そこで、彼女が言ったことをふと思い出して。焼きそばパンが好きだって言ってたっけ。じゃあ。つまりそういうわけ。

 ***

「思い出して」、のあとには「(焼きそばパンを)買うことにした」と続くだろう。しかし次の文が、そうすることを中断させている。こういう、文を連想的に繋げていくときには、終止形で言い切るとかえって都合が悪い。連想的に繋げるのは、即時性が高くて、いまちょうど考えている、という雰囲気を表現しやすい。迷いやためらいなんかを表現するときにもよく向いている。

 いずれの場合も、語省略か、中断の目的で使う。どうして省略したいのか、どうして中断したいのか、ということをちょっと意識すると、もしかすると幅が広がるかもしれない。もちろん四六時中意識して使うなんてわけにはいかないのだけど、慣れというのも大きい。ちょっとだけ意識するようにすれば、それが何かしらに作用して、そのうちに自然にそういうことを絡められるようになる、かもしれない。
 実際のところ、ここぞというポイントで、印象を操作できれば、それで充分なのである。そのときどきで、有効な表現というのを考えるようにしていれば、それだけで随分違うと思ってる。
 だいたいぼくにしたってこんなこと考えながら書いているわけじゃ、ないんだしね。

 しかし知っているのと知らないとではやっぱりぜんぜんわけが違うので、今後もちょこちょこ書いていきたい所存。

related: ことば

2009-12-26(Sat)

言葉と表現 #4

 タイトルの話の前に、前回、文の結びについての話を書いた。
 そんなわけで、そういう話を書きたいなと思う。

 文の結びというのは、むしろ英語の文などを読むとすごくだいじだなと実感する。英語は、基本的には文頭はだいたい決まっているのだ。けれども、文の終わりは自由度が高い。英語の文でいちばん遊びを入れられるのは、もしかすると文末なんじゃなかろうか、と英詩や英詞を読むと、そう思うなー。まぁ、英語にもいろいろなレトリックがあり、日本語にはない独特のリズムの遊びがあるので、それだけだとはいえないと思うけど、さておき。
 日本語はどうだろう。
 逆に日本語は、文末の形が基本的には一定だ。動詞で終わるか、形容詞で終わるか、終助詞で終わるか。動詞は活用したって、助動詞がくっつくくらいになってくる。しかし実際にはもっとあって、それは前回も話したとおりである。
 基本を崩すことが修辞になる、というのは、つまり変わったことをやるということ自体が、そこを特徴付けて目立たせる、強調効果になる、ってことだ。加えて、省略なんかでは本来は続くはずのところをあえて切るわけだから、なんともいえない余韻を生んだりする。ひとつずつ、その効果を見ていきたい。

・体言止め
 まずは定番から。
「体言」、というのは日本語の文法で使われる言葉で、名詞のことを指す。「連体」というのは名詞を修飾することだ。動詞や形容詞なんかのことを逆に「用言」なんて言ったりするし、これを修飾することは「連用」なんて言ったりする。
 で、体言止めって結局何かというと、名詞で終わる文のことだ。
 例を出す。いつもどおり、青い鳥を教材にしたい。

 ***

「……散々な目に遭ったよ」
「ついてこない、という選択肢もあった」
「……そりゃ、その」
 長谷川はなぜかうろたえた。首を傾げる。
「ははは」
 そんな様子を見てか、マスターが屈託なく笑いながら、やってきた。手には、盆。盆には、グラスが二つ。
「お嬢さんはなかなかいじわるだね。あまり男の子をいじめるものではないよ」
「そういうつもりじゃ、ありません」

 ***

「手には、盆」が、体言止めである。「~がある」と続くべきところで、そうしていないのは、その次に「盆」とあるから。一般的には体言止めは余韻を生むために使われることが多いが、このように次の文の頭に重ねるようにすると、独特のリズム感が生まれると思う。小気味よいステップ感、というか。
 もうひとつの効果として、体言止めは、その名詞を強調する。この場合は「盆」に意識が集中している感じになる。もちろん、ここで意識が集中するからこそ、次の主語に重ねて、文がスムーズに繋げられるわけだ。

 ネタはあんまり多くないので、今回はこれくらいにしておく。次は連用止め、連体止めの話ができたらいいな。

 余談。

 修辞にばかりとらわれていると中身が希薄になるのではないか、とはよく聞くし、わざわざわかりにくくすることに意味があるのか、と言われたこともある。けれども中身を本当に理解しなければ、修辞を使うことなんてできないと思ってる。修辞が使えるってことは、中身を理解してるってことだ。そしてあらゆる言葉に意味がある以上、修辞を使うことに意味がないわけがない。
 だから、ここでは気にせず修辞の話をしていきたい。そんなエクスキューズで今回の話はおしまい。

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