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2010-01-04(Mon)

言葉と表現 #7

 久しぶりにタイトルの話でも。
 前回は「狼と香辛料」で、主要キャラクターふたりを並列するやり方について話した。今日はメインキャラクターひとりを据えるものを見てみたい。
 メインキャラクターひとりを据えるタイトルは、数え切れないほどある。前に「灼眼のシャナ」「涼宮ハルヒの憂鬱」といったヒロインを据えるものを例に挙げた。直接的に人物名をタイトルに含めるものもあれば、「文学少女」シリーズのように、その人物の別名を含めたり、あるいはその人物を想起させるような語句を含めるものもある。
 今回は、最後のケースを見てみよう。
 そういうわけで、「さよならピアノソナタ」を挙げることにする。
 前回注意喚起しなかったけど、軽くネタバレを含むので気をつけられたし。前回よりも核心に触れるので、もし不安なら読まないことを推奨するけど、アンコールつきで全五巻読んでからこの記事を読むときっと幸せになれるはず。

 前回のとおり、その人物を想起させるような語句、というのはつまり比喩の技法である。比喩を使うと、意味が曖昧になる。いろいろ想像させる余地ができるわけだ。自然と意味を重ねやすくなる。
「さよならピアノソナタ」の「ピアノソナタ」は、今回の話はタイトルにヒロインを据える例を見てみようとはじめに言っているのだから、もちろん本作のヒロイン蛯沢真冬を指している、という話だ。他人を寄せ付けない雰囲気を持った、孤高の天才ピアニスト。もちろんピアノソナタそれ自体も作中に大きく関わってくる。作品を一曲の音楽に見立てて「別れのピアノソナタ」と取ることもできるだろう。しかし「さよなら」と呼びかけているのだから、やはりここは、この「ピアノソナタ」は真冬を指していると捉えたい。

 ところでこの作品はバンドものである。
 バンドものというのはふつうアンサンブルである。そしてピアノソナタというのは、ピアノ独奏曲のことである。たったひとりで演奏する真冬をピアノソナタにたとえて、この「さよなら」を真冬との別れを暗示するのなら、逆に、ピアノソナタをただひとりきりで演奏することとして捉え、ひとりで演奏する行為に別れを告げる、と見ることもできるのではないか、とぼくは考える。
 それはつまり、真冬との別れは一時のものにすぎなくて、いつか再会することを暗示している、と。
 もしこの記事を読んでいる方が、encore piecesまで読んでいるのならば、この言葉の意味はよく分かるはずである。具体的に言うことはしない。それこそ、野暮ってもんじゃないか。

 このタイトルは、本当に読んだらいかに素晴らしいタイトルか分かってもらえると思う。
 悔しいけど、これを言葉にすることなんてできない。
「さよなら○○」というタイトルは、わりと常套的に使われる形式である。そしてそのだいたいが別れの話である。
 けれどもこの作品が別れを告げるのは、必ずしも「ひと」と「ひと」とは限らない。
 こういうふうに、本来想起されるものとは真逆の意味を含めると、読み終えてタイトルを見返したときに、なんともいえない感慨を喚起させる。
 このタイトルを素晴らしいと思うのには、確実に作品に対する思い入れという補正がある。しかし、ぼくは、それでも言いたい。作品のよさを、それをなお際立たせるこのタイトルは、やはり素晴らしいと思うのだ。

 もしここまで読んで未読の方がいたら、ぜひ読んでもらいたい。
 そうすればぼくのこの気持ちも、きっと分かってもらえると思ってる。

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related: ことば

2010-01-02(Sat)

視覚の翻訳

 たまには文章書き以外の話をしてみる。

 マンガ的表現、というのがある。地球が割れたりするやつだ。これはイメージです、なんて書くまでもなく、マンガだから、で通ってしまう。主人公がヒロインに殴り飛ばされて空の星になったりしても、誰もリアリティ云々なんて野暮な突っ込みしない。Cross†Channelではコミック力場なんていってネタにしてたりして、ひじょうに楽しかったなぁ。
 さて、こういう明らかに現実的にはありえない描写は、マンガ的表現だ、とかすぐにわかるものである。しかし実際もっとよく考えてみると、日本以外を舞台にした作品で日本語で台詞が書かれているのはおかしいんじゃないか、とか、そういうことも出てくるだろう。もちろん結論から言えばおかしくもなんともない。

 時代や文化の背景設定について、充分に考証した上で作画するというのは、歴史ものだったりファンタジーやSFだったりでは、その世界観に説得力を持たせるために確かに必要なことだ。しかしあまりにこと細かにそれをする必要があるかというと、微妙なところになってくる。
 たとえば言語でいえば、多言語にならないのなら別に日本語でいい。作品になった時点で、日本語に翻訳されている、というふうに考えるわけだ。そしてどうしてそう考えるかというと、世界観のために言語まで変えてしまうと、作品を読むのに支障をきたしかねないから。当たり前のことを言っているようだけど、これをほかのものに置き換えて考えると、また違ったものが見えてくる。

 たとえば。
 恋愛もののヒロインはどうして皆美少女なのか、というのがある。
 しかし別に変じゃない。これから読み手が、主人公キャラクターを通してそのヒロインたちと恋愛するのに、ヒロインの容姿が平均的だったり、あるいは、ちょっと残念だったり、というのでは困るわけだ。だから実際に美少女という設定であることもおおいにあるだろうけど、客観的にどうだったかはさておき、その主人公の目にはこう見える、というのでまったく構わない。主人公にとって美少女なら、それは美少女として描かれていてまったく変じゃない。そう、もしかしたら平均的な容姿かもしれないけど、視覚を美少女に翻訳しているのだ。フィルターで補正かけてると言ってもいいかもしれない。
 髪の毛の色が物理的にありえないのがマンガ的表現として受け入れられるのと同じように、こう考えたら充分納得できる。

 同じようにもうひとつ。
 近未来SFは技術が発展していることが予想されるからより未来的なデザインの構造物が描かれる。
 ところが、ちょっと遡って昔のSFなんかを見ると、鉄板で箱組みして、配線やパイプが向き出し、計器類がアナログメーター、なんていうのがいっぱいある。本当なら、その当時に馴染みのある機械が未来の世界で使われていることはないだろう。配線はカバーで保護するどころか、そんなのは壁や床の中に配管を通せばいいのだし、計器類はデジタルで、数字やグラフを使えばいい。操作パネルもあんなにたくさんいらない。細かい操作はマシンに制御させて自動化したらいい。しかし、それではだめだったのだ、たぶん。
 見るからに機械然とした部品が多数配置されていることに、なんというかSFっぽさみたいなものがあったのだ。

 G-SAVIORをみたときにコックピットの古臭さを見て唖然とした覚えがある。ガンダムのコックピットといったら全天周囲モニターにリニアシートである。しかし、そういったものを描くのではなく、あえて安っぽいデザインにしたのは、もしかしたらアメリカではそっちのほうがよりわかりやすいSFだったのかもしれない。もちろん、単にガンダムへの理解が不充分だったのかもしれない。しかし作風を見るにアメリカらしいSF作品にしようとしていたのは間違いないから、あれはあれでいいのだろう、と今では思ってる。

 わかりやすさのために、あえて考証を無視することも、ときに重要なことだとぼくが考えるようになったのは、わりと最近のことだ。

 具体的にいえば、サマーウォーズを見てから。

 サマーウォーズはネットワークが大きく進歩した未来を舞台にしている。仮想空間が現実空間に大きく関わり、インフラレベルで浸透しているような世界で、しかし彼らが持っている情報端末は、いま現時点のものだ。携帯電話にiPhone、ニンテンドーDSである。ゲーム機なんて五年もしたら代替わりするのに、だ! 携帯電話はもっと早い。ストレートタイプが折りたたみ式にとって変わられ、いつの間にかスライド式が主流になり、全面タッチパネルも珍しくなくなっていた。iPhoneだっていつまでも同じデザインであるはずがないだろう。しかし端末はあの世界観からしたら旧時代然としたもので描かれている。仮想世界のグラフィックインタフェースがあんなにも未来的なのに、だ。
 けれども、登場人物たちがおのおのキャラクター性に適したアイテムを持っていることが、そのキャラクター性を表現する上で重要だった。どんな端末で仮想世界にアクセスしているのか、ということが登場人物の個性を表現しているのだ。それなのに、ぱっと見なんだかよくわからないというのでは、そうした効果は期待できない。侘助おじさんが持っているであろう最新機種の端末を、iPhoneに翻訳したのだ。ぼくらがより理解しやすいように。

 結局、表現したいものが最も優先される。表現したいものがあって、それを伝えることが何より重要だから、伝達を阻害するなら整合性なんてかえって不要になる。表現者の意図を汲んで、描こうとしたものがなんだったのかを考えたなら、ときとして、考証が不充分だとか、野暮ってもんじゃないだろうか。

 本当に大事なのは、表現したいもの、それ自体である。時代や背景設定の考証だって、本来はそのために行うものだ。表現したいものの説得力を高めるための手段にすぎない。逆に表現したいものをよりわかりやすく伝えるために、あえて整合性を無視するのだって、それももちろん構わないはずなのだ。

 いちおう最後にひとつだけ断っておこう。
 ぼく自身は、時代や背景設定の考証が綿密に精細に行われた作品を見るのはすごく好きである。中世を舞台にした作品に全身鎧が出てきたらやっぱりげんなりだってする。そういう考証が必ずしも無視できるとはぼくは思わない。作者の意図を考証を怠ることのエクスキューズにしていいわけがない。それとこれとは、別のお話。

related: かきもの

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