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2010-07-28(Wed)

英語が苦手なのは

 きょうは語彙を身につけることについての話をしたい。

 ところで、日本人は英語が苦手だと言われている。ぼくのそんなに長くもない人生経験からいえば、たぶんそれは本当なのだろうと思う。しかしぼくは、それは日本っていう文化や社会や価値観によるものではなく、また、日本語と英語の言語的差異の大きさによるものでもなく、純粋に教育のほうの問題なのだろうと考えている(もちろん、文化や言語的差異も多かれ少なかれ影響しているだろう、しかしそれが主原因だとは考えていない)。
 そういう前提で話を進めよう。
 ぼくは、語彙を増やすということ、適切な語選択ができるということ、これらと、日本人が英語が苦手であることとの間になんらかの関係があるのではないか、という仮説を立てた。べつにぼくは言語学のエキスパートではなく、ちょっとかじっただけのにわかなので、きょうの話はその仮説のただしさを証明したりするという類ではなく、ある種の思考実験をもとに、語彙を増やす、適切な語選択ができるようになる、そのために何ができるだろうか、ということを考える手がかりを探っていきたい、という主旨だとご理解されたい。

 さて、日本人は英語が苦手だと言われている。ここを読んでくれているひとの中にも、中学高校と英語の授業がしんどかった、というひとがいるかもしれない。塾で受け持った生徒のうち、すくなくとも半数は英語を苦にしていた。ふつうプログラムの命名は英語に従うが、「このコードは英語ができないひとが書いたんだなぁ」とわかるような、ふしぎな命名を目にすることもよくある。
 そんな経験から、英語ができるかどうかを見分ける方法を考えてみた。

 ちょっとためしに、1) 2010年7月28日 と、2) 愛知県名古屋市中区栄 を英語に訳してみてほしい。

 こうなる。

 1) 28th July 2010
 2) Sakae, Naka-ku, Nagoya City, Aichi(, Japan)

 細かいところはともかく、この順番が自然に思い浮かべられるひとは、すくなくともそういうひとは、英語ができそうな気がする。
 日本人にとって英語がどうして苦手なのか、というのは、まずひとつに、英語が日本語とちがう順番でものごとを表そうとする部分がありそうだ。

「そんなもん、日本語と違うんだからわかるわけがない」

 おっしゃるとおり。
 しかし、日本語と比較的近い文法を持つ韓国語を母語とする方々は、日本人よりも英語ができる、というか、TOEICのスコアでみれば、けっこう優秀な部類に入る。もし言語の差異が英語習得の妨げになっているのなら、韓国人も英語が苦手でないとつじつまが合わない。ぼくは韓国人がどうやって英語を習得しているのかしらないから、比較のしようがないのだけど、それでも、日本人が英語が苦手な理由を推測してみた。
 なぜ日本人は英語が苦手なのだろう。

 それは、

「そんなもん、日本語と違うんだからわかるわけがない」

 という考え方にこそある。
 いいだろうか。そもそも、日本語と英語は、違って当たり前である。多くの英語が苦手な日本人は、日本語と英語が違って当たり前なのにもかかわらず、日本語の知識をベースに英語を身につけようとしがちである。lとrの区別とか、日本語では意識しない発音が苦手なのはある意味しかたがないところはある。しかし、tomatoを「トマト」と読んじゃうのはどう考えても先入観のせいだろう。あまりに日常に根ざしすぎていて仕方ないのかもしれないが、potatoを「ポテト」と読めるなら、tomatoも「トメト」と読んだほうがまだましだ。もちろんどっちも間違ってるけれど。

 そう。原因は、先入観だ。
 日本人は無意識のうちに、「言葉の普遍的なルール」みたいなものをベースにして他の言語に取り組もうとしている。しかしそんなものは、ない。
 そして、これは他の言語にだけいえるものではない。日本語ですら、そうなのだ。

 ちょっと古語の話をする。

 さすがに「をかし」という古語を見たときに「おかしい」と訳すひとは、あんまりいないだろうと思う。
 しかしはじめて「をかし」という古語を見たとき、つい「おかしい」という現代語訳を思い浮かべそうになったとしても、それは仕方がないことかもしれない。
 一方で「あはれなり」という古語を一律「哀れだ、かわいそうだ」と訳してしまうひとは、「をかし」を誤訳するひとにたいして、たぶん、多いんじゃないか。
「かわいそう」は、「あはれなり」の一部分でしかなくて、「あはれなり」というのは、ため息をつきたくなるような、しみじみとした気持ちをさしたり、静かにこころが動かされるさまをしめしたりもできることばだ。
「をかし」「あはれなり」は古語に対する理解を深める、入り口になる言葉だと、ぼくは思っている。この二つの言葉は、古語には現代語と違う価値観があったというしるしにほかならない。
 つまり、「枕草子」から、古語と現代語の間に隔たりがあるのだぞ、という意識を芽生えさせられるかどうかが、古語に対する理解を深めることができるかどうかにかかわってくるんじゃないか、と。
 古語は現代語とは違う。違って当たり前だ、ということを自覚する。そうすると、「をかし」も「あはれなり」も、現代語にはない未知の語彙だ、ということになる。そこではじめて辞書の出番がやってくる。先入観があるうちには、辞書を使おうと思わない。間違っているかどうかにすら気付けない。誤解は連鎖するし、語彙は増えない。

 英語に戻って考えてみよう。
 tomatoという単語を見て、「ああ、トマトか」と思ったところで、思考停止せず「そいつはほんとうにトマトなのか?」と考えてみてほしい。辞書にはtomatoを「トマト」と発音するようにはたぶん書いてない。あの発音記号からカタカナを起こすなら「トメイ↑トウ↓」だろう。

 たしかに英語は日本語とあまりに違いすぎている。違いすぎているから、分かるところから、知っているところから理解を深めていこう、足がかりにしよう、と思うのも無理はない。けれども、どんなに遠回りでも、地道に知識をひとつずつ積み重ねていくよりほかない。それはけっして無駄なことじゃない。英語のために積み上げた知識は、すくなくとも英語には通じるのだ。

 日本人が日本語を身につけるのだって例外じゃない。本当にそのことばは自分が知っていることばなのか疑うこと。そこから、日本語にたいするより深い理解が生まれてくる。
 語彙を増やす、適切な語選択ができるようになる。そのために必要なのは、既存の知識に頼りすぎない意識だと、ぼくは考えている。

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