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telealias

 ニワトリだって空を飛べる。

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2009-12-21(Mon)

組むと語るは似て非なり

 ゆえっちが非常にいいことを書いていた
 キャラクターつくりに関しては、ぼくもいくつか話したい内容があるのだけど、その前に、この話をしておきたい。

 タイトルを見て、何の話かピンときたひとはいるだろうか。組むとは、物語の枠組みのことである。語るとは、すなわち物語そのものだ。それをいかに語るかということは、聞き手に与える効果に大きく関わってくるだろう。
 そんなわけで、今日は、プロットとドラマツルギーについての話をしたい。と、いっても、あくまで自分の考えとして、こうだと考えている、という話なので、もしかしたらあまり参考にはならないかもしれないのだけど。

 予防線はさておき、まずプロットってなんだ、ドラマツルギーってなんだ、という話から。

 プロットとは、物語の枠組み、構成を指す。
 導入から結末に至るまでのあらすじであり、加えて、物語の各場面についての因果関係も示すもの。
 因果関係とは、ひらたくいってしまえば伏線だ。ある場面が、後のほかのある場面を導く原因となる、ということを、プロットにおいては示す必要がある。単に話のあらすじ、ということと違うのはこの点だと思う。
 ドラマツルギーとは、ドラマチックさを演出する手法、というまさにそのまんまの言葉なのだけど、物語の起伏を生むための演出や舞台装置、登場人物の設定に至るまでの、劇的さの創出方法を指す。演劇論には明るくないので、もしかしたら間違っているのかもしれないけれど、だいたいはこういうことだと思ってる。

 さて、プロットが因果における必然なら、ドラマツルギーは物語を盛り上げるための必然だ。因果にかかわらず、劇的な展開のために用意された必ず起こる偶然。
 ことミステリにおいては、プロットが重要だろう。伏線の張り方こそが結末の面白さを生む。もちろん、SFがミステリ的な面白さを内包しているということは先日書いたとおりで、SFにも同じことが言えるだろう。
 ドラマチックさを優先した展開は、ときにご都合主義とも取られるだろう。しかし、何もかもが説明のつくことばかりだろうか? 事故や天災のようなものは、その後の展開のためによく「きっかけ」として用いられるし、登場人物同士が偶然鉢合わせることによるおかしさなんかも、偶然だからこそ面白いと思ってる。

 これらは、それぞれが互いに相反する要素ながら、いずれも物語にとって欠かせない要素だとぼくは考えている。
 理路整然と、はじまりからおわりまですべてのできごとに説明がつく作品、というのは、それはそれで面白いものだ。けれど、ただ巧いだけの作品に終始しないだろうか。そういえばあの作品で伝えたかったのはなんだったろうか。そう感じることは、ままある。
 逆に、ドラマチックな展開を優先しすぎるあまり、都合のいい展開ばかりになっても、それはそれで問題だ。あまりに唐突な展開は、読み手を置き去りにする。どうしてそうなったのかを分かるように説明してもらわなければ納得できないし、納得できないまま読み進めるのは、なんというか落ち着かない。ミステリで偶然謎が解けたら興冷めだ。解いている最中にだれかが答えをばらしてしまったような、そんな残念さがある。

 エンタテイメントとして、いずれかの要素を特化させることはある。それもまた面白い。
 けれどもやっぱり、ロジカルさとドラマチックさの両方が上手く生きている作品をこそ、ぼくは好むし、そういう作品を書ければと思う。

 ひじょうにロジカルな作品として「インシテミル」(米澤穂信著)を、ひじょうにドラマチックな作品として「とある飛空士への追憶」(犬村小六著)を、これら二作品を挙げて、今回の話を終えたいと思う。機会があればぜひ読んでもらいたい。
 いずれ、今回の話を踏まえて、ドラマツルギーをまじえたプロットの組み方をここで書けたらいいな。

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