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 ニワトリだって空を飛べる。

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2009-12-17(Thu)

言葉と表現 #2

 ひらがなと漢字の印象の違いの話をしたので、それに絡めて話をしてみたい。

 という前置きから唐突にも、今回は名前というものについて触れたい。固有名に限らない。一般名も含めた話を。

 そもそも名前はなんのためにあるのだろう?
 それは、識別するためだ。それも、できるだけ分かりやすく。
 固有名一般名にかかわらず、例外なくそうだろう。
 それなら名前というのは、どこから来たのか。想像してみる。

「きみは小さいからちび、きみは大きいからでか、まるいきみはぶうにしよう」

 なるほど、何かに固有名を与えるのは、特徴をもとにすればいいから、一般名があれば比較的簡単だ。
 では、一般名がもし存在しなかったら?
 困ったことにこれだけのことで、小さい=ちび、大きい=でか、まるい=ぶう、という意味の対応が未解決になってしまう。
 しかしこのうち「きみ」というのはジェスチャで示すことができる。かなり原始的な概念だ。
「小さい」、「大きい」、「まるい」。これらもジェスチャで示せる。
 しかし、「ちび」、「でか」、という言葉をひねり出すのは難しい。
 いっぽうで、「ぶう」、というのはやさしい。豚を指さし、鳴き声を真似てやる。おそらくは伝わるだろう。「豚のようにまるいからきみはぶうだ」――「ぶう」という名前が、ここに生まれたわけだ。

 じつのところ、名前が形成された経緯はわかっていない。なぜ「小さい」ことを「ちいさい」といい、「ちび」といい、「大きい」ことを「おおきい」といい、「でかい」というのかは、なぜそうなったか、という理由を見つけるのは大変だと思う。もしかしたら、理由なんてないかもしれない。
 つまり、名前というのは「とりあえずこう呼ぶ」と、適当につけられたりしていることが、じっさいすごく多いかもしれないってことだ。
 まだ擬音語のほうがはるかに由来がわかりやすいではないか。擬態語だって明確に「なんとなく」だとわかる。
 なんとなくだったものが、決まりや法則性の中で、それらしい形を作っていった結果。
 それこそが、言葉だ。
 なら、言葉が恣意性をはらんでいるのだってしかたない。意味をきっちり当てはめられない、印象や感覚的な要素を持つのは、由来からして当然だろう。
 むしろ、本質はそういった感覚的な面にこそ宿り、意味はあくまで分類したり識別したりするためのものにすぎないとも言えるかもしれない。

 立ち戻ると、同じ言葉が、ひらがなか漢字であるかというだけで印象が違うように(これはむしろ文字――視覚情報の持つ概念の問題だけど)、言葉というのはただひとつの概念を示すものじゃない。いくつかの概念に、とりあえずラベルを貼っただけにすぎない。概念というのは、区切りのある単一の存在ではなくて、範囲だったり量的だったりするものだ。
 ある概念のある範囲に対して名前をつけたものが言葉だから、その範囲と重なるほかの範囲を持つ言葉だってあるだろう。けれどもそれら二つの言葉は、同じ概念を共有するだけで、同じ言葉ではない。
 言葉は、要するに、非可逆的にしか言い換えができないってことだ。言い換えたとき、すでに元の言葉が持っていた意味は失われている(いや、これを言い出すと言葉は普遍ではないし話者間においてもその言葉が持つ概念は違うだろう、が、それは置いておく。厳密に概念を共有する必要はない。部分的にでも共有できればコミュニケーションは成立する。本来概念が大きく食い違うであろう外国語話者同士の間でコミュニケーションが成立することから明らかだ)。

 ここで言いたいことは、二つある。
「言い換えが効くならより平易な言葉を選ぶべきである。難解な語句を使うべきではない」
「言葉は常に誤解の可能性を内包しているから、理解を得ようと努力するのは不毛である。相手と自分とで違うのだから仕方がない。自分の考えは、自分の言葉でしか表現できない。相手が理解しようと努力するべきである」

 この二つの主張は正しくない、とぼくは言う。

 一つ目は、もし本当にそうなら、世の中に難解な言葉なんて存在しないだろう。そういう言葉は淘汰されていき、いずれ使われなくなるだろう。そしてそうなるのであれば、そういった類の主張は、時間が解決することだから、あえてしなくてもかまわない。
 基本的には言い換えなんて効かないのだ。もし本当にその概念を伝えたかったら、その言葉でしかたぶん無理なのだ。言い換えが効くということは、それほどの必要性を持たない場合だ。あるいは、情報が抜け落ちるのを受け入れられる場合か、さもなくば、相手と定義を共有できていない場合だ。
 三つ目については少し厄介で、相手がその定義を自分と共有できていないかもしれないから、より平易な言葉に置き換えることで、より多くの人に理解してもらおう、というのは、コミュニケーションの成立を優先するなら、そうするほうが絶対にいい。そして言葉はコミュニケーションのための手段だ。
 しかし、必ずしもより多くの人間とコミュニケーションを成立させる必要がない場合や、その難易度がコミュニケーションの成立に致命的な影響を与えないと思われるのだったら、そこまでする必要もないと思ってる。

 二つ目はもはや言語道断だ。
 コミュニケーションの努力を放棄した人間は、だれとも口を効かなくていい。伝わらないのが当たり前だから努力するのだし、表現を模索するのだと思ってる。そしてその努力こそが、言葉をつづる楽しみなんじゃないのか?

 甲と乙とで、極端ながら、真逆の意見を並べてみた。甲に対する反論を極論化したものが乙だ。
 言葉を選ぶというのはむずかしいことだと思う。
 今回、あえてきつい語調、断定表現、それから、漢語の多用をしてみた。もしかしたらむっとする人もいるだろう。そういう効果が出ることを、じつはぼくは期待している。
 反感や納得の行かないところから、思考が生まれるし、思考の中から良案が生まれると、ぼくは思っているからだ。

 ぼくの立ち位置についてはこれくらいにしておこうと思う。次はちょっと緩めの話の予定。
 じゃあね!

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